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奥村土牛と山種美術館

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私が山種美術館を知ったのは、たまたま偶然で、日本に戻った時は美術館に行くようにしていた。油絵の私は日本画の世界は良く知らなかった。有名な画家の展覧会があれば見に行ったが、日本画専門の美術館に行くような事はなかった。かなり以前になるが、日本に戻った時、日本橋の方に用事があり、近くに日本橋兜町の山種ビル内に日本画専門の美術館があり、見に行った時、奥村土牛の作品があった。他にも有名な私の好きな画家の作品もあっり、名前は知っていても本物の作品を見るのは始めてで大いに気に入り、その時以来必ず見に行く美術館になった。その後美術館が千代田区の千鳥が淵に移転し、今度は渋谷区広尾に移転していた。移転と共に美術館は大きくなったが、今年、私が美術館に行ったのはフランスに戻る一日前で、私の好きな画家、奥村土牛の特別展をしていると思い行ったのだが、丁度終了していて大変残念な思いをしてしまった。(写真のカタログはダンナ、オットドッコイが先に日本に行き見に行った時買った物です)009.gif残念なのは、特別展を見れない事もあったが、常設展示場のスペースが小さく、これといった画家の作品も展示がなく、本当にがっかりしたので、こういうたまにしか行けない愛好家もいるので、常設展にも力を入れて下さいと、・・・勝手にブログでお願いしました。山種美術館を造った山種証券の創業者、山崎種二について、これも本当に偶然、フランスにおいて日本人の方より要らなくなった文庫本を頂いた中に、城山三郎著「百戦百勝」の本があり、これが山崎種二の伝記的な小説で大変面白く、あっと言う間に読んでしまった。そして、昔から芸術家を支えてきた、パトロンと絵描きの関係で、山崎種二と土牛の人柄を表したエピソードを土牛の自伝、「牛の歩み」で書いてあるのを転載します。「土牛は゛山崎さんがひょこりお見えになり、話の途中で急用を思い出されたのか゛ちょと電話を貸して下さい゛と言われました。しかし、貧乏画家には電話はまだ望めない時代゛電話はありません゛と言うと驚いた顔をされたが、お帰りになって2、3時間すると電話局の人が玄関に現れて、゛電話を取り付けます、お代はもらってありまずと言ったのには心底びっくりした。・・・・・ふだん優れた仕事をされている方は、このように電光石火の行動をされるのかと爽快な思い出であった」と書いている。人柄が絵に表れるというが、私も奥村土牛のように息長く年と共に良い仕事をしなければと・・・反省。
by m-isse-art | 2010-08-20 17:07 | 私の好きな絵画き、雑記帳 | Trackback | Comments(0)